松浦亜弥、歌、心動。

彼女のことを「あやや」と呼ばなくなったのは、いつ頃からだろうか。


18歳を迎えた時?

渡良瀬橋』を歌った時?

前髪を伸ばして大人っぽくなった時?


「あやや」。彼女のニックネーム。みんな親しみを込めて彼女のことを「あやや」と呼びました。「あやや、かわいいなー」僕も以前はそんなことを言っていました。

でもいつの頃からか僕は松浦亜弥を「あやや」と呼ぶことに違和感を持っていました。なんだか恥ずかしかったのでしょうか。照れという名の違和感。


デビューしてから5年、松浦亜弥はスーパーアイドルとして名を馳せ、今のポジションとイメージを築いて来ました。それが目覚しい活躍と成長であったことは誰の目にも明らかでしたが、その飛躍と共に、彼女についての凝り固まった印象や世界観という副作用も生まれてきつつあったのかもしれません。


周りの人間ほとんどが彼女を見、彼女を知っている環境。そんな状況の中で彼女はずっと走り続けていました。


今回の新曲リリースにあたり、彼女は自分が歌うという予備知識なしに作られた歌の中から、今までの自分のイメージにない2曲を選んだと言っています。彼女の歌を作る人、聴く人、そしてその歌を歌う自身の中に巣食う「松浦亜弥像」を敢然と打ち壊しにかかったのか。それとも、新たな側面を伝えようとしているのか。


『砂を噛むように・・・NAMIDA』。

『ハピネス』。


そこには松浦亜弥がいました。彼女がいい意味で「松浦亜弥らしくない」と選んだ曲の内には、確かに今の彼女の姿があった。


それと同時に、「あやや」もいました。まだ14歳のデビューしたての彼女も。その前も、そのずっと前の彼女も。今までの人生を歩んできた松浦亜弥のすべて、あるいは断片の数々が詰まっているように感じられました。


また、彼女がこの曲に込めた「1人の女性」としての松浦亜弥も描かれていました。この歌の主人公としての松浦亜弥。「22~23歳の女性をイメージした」と言っていた彼女は、未来の自分の姿を思い描き、そのイメージに重ね合わせたのかもしれないですね。


人は誰しも表現をして生きています。

そして人が何か表現する場合、その材料は自分の中の引き出しからしか出てこない。

本当の表現とは、自分の内からしか生まれないものだと僕は思うのです。


松浦亜弥松浦亜弥らしくない歌を歌った結果、とても松浦亜弥らしい表現になりました。

皮肉ではありません。今回この歌で松浦亜弥松浦亜弥の表現をした。飾らず、肩の力を抜いて。

ただそれだけのことですが、それは僕たちも周りも、もしかすると本人ですら知らなかった表現でした。限りなく純粋な、松浦亜弥の歌。「自分の」歌。


1つ1つ噛みしめるように大切に大切に歌い、かといって大げさになることもなく、ありのままの彼女で自然に表現されたボーカル。

ああ、これか・・・これがみんなが思い描く「松浦亜弥」ではない「松浦亜弥」か。

僕はそう感じた。


「あやや」と呼ぶことに違和感を持った瞬間。それは僕が歌を歌っている「あやや」の裏に「松浦亜弥」という人間を感じた時だったのかもしれません。



もう聴いた人も、まだ聴いていない人も、この歌を心で感じてみて。

きっと、心動します。