コンサートでのカラオケ形態について

先日、『後浦なつみコンサートツアー2005春 トライアングルエナジー』のDVDを観た感想を書いたんですが、書いている途中でいろいろ脱線して考えたことなどについてここで触れてみようと思います。


『トライアングルエナジー』の感想でも少し言及している「(ハロー内の)他のグループの歌を歌う現象」について。俗に「カラオケコン」と呼ばれている現象であります。

これは根深い問題でありまして、ファンの方々の賛否で言えば否のほうが多いかもしれません。


以下は、僕の視点から分析し書いております。

個人の一意見なので多少穿った見方になっていますが、「カラオケコン」についてもやもやとした気分を抱きながら思考しているファンの方へ提示する1つの視点として参考にして頂ければと思います。

そして何よりも、この問題に言及しこういう見方や意見を形としてまとめることは、僕自身にとって必要不可避なのであります。一回正面からちゃんと考えてみなきゃね。


もし皆様がこの問題について考える機会があったら、その時はぜひ(僕のも含め)他人の意見や雰囲気に染まり過ぎることなく、曇りなき目で考えてみて下さいね。


さて、なぜ「カラオケコン」というものをするようになったか。それは僕たちには知る術が無いのですが、そこをあえて予想すると「1つのコンサートの形態として提案したかった」という見方が出来るのかな、と思いました。


いつからカラオケコンが始まったか厳密にはわかりにくいのですが、顕著になって来たのは近年のハロプロコンサートにおいてでしょう。もともとハロプロコンサートには「所属のアーティストが一通り楽しめる、見本市のようなもの」という側面があると個人的に思っていまして、観に行った人が「そこから商品を選ぶ」または「好きな商品以外の商品も試す」的なことができるコンサート形態であります(「商品」とか書いて申し訳ない、ここでは例えとして書いています)。


所属アーティストが全員参加するハロプロライブでは、AがBの曲を歌う機会というものがあります。それはある時期まで「A全員でBモーニング娘。の『でっかい宇宙に愛がある』を歌う」とか「A全員でB松浦亜弥の『Yeah! めっちゃホリディ』を歌う」といった、アンコールで全員が誰かの曲を歌う感じだったのですが、そういう瞬間を見てプロデュース側の人間にピンと来た人がいたのでしょう。たぶんそうした経緯から今の「カラオケコン」が始まったとも考えられます。


そして、単に「面白そうだから」という理由でカラオケコンというものを視野に入れ始めたわけではなく、「1つのビジネスの形にならないか」という試みとして行われているであろうことも言っておかねばなりません。


えげつない話かもしれませんが、このコンサート形態での公演が成功したら少しCDのリリースペース落としてもコンサート開催が実現できますし、組み合わせによってパターンは無限ですから、ぶっちゃけしばらくCD出さないでも回すことが出来ます。

さらにコンサートをやるときの組み合わせも自由自在ですから、目的に応じたコスト削減効果もあると思います。アーティストを多数抱えていれば、コスト問題にも直面するはずです。


「面白いから」という、単純かつある意味純粋な発想だけならまだかわいいものです。しかし冷静に考えてみれば、会社という組織はそういう理由だけでは動かないことのほうが圧倒的に多いことに気づきます。


かくして、まずはハロプロライブで試験的にカラオケコン形態が実施されます。

『Hello! Project 2005 Winter ~A HAPPY NEW POWER!~』においては、全体を紅組と白組の2組に分け、双方ほぼ同じセットリストで構成されました。ここで重要なのは「同じセットリストで2組作った」という事実だと思います。セットリストが2組同じということは既に曲に重きを置いておらず、「意外性」ということに最も焦点が絞られていることを現している気がします。歌うメンバーと曲の組み合わせの意外性、また、歌うメンバー同士の組み合わせの意外性。


2つの意外性は、驚きと新鮮さというメリットと脈絡がなく思い入れを持てないというデメリットの諸刃の剣を持ち、観客も「お祭り感覚で楽しい」という人と「思い入れが持てず意味が見出せない」という人に分けられると思います。


その公演の進化系が『ハロ☆プロ パーティ~!2005~松浦亜弥キャプテン公演~』そして今現在の『ハロ★プロパーティ~!2005~松浦亜弥キャプテン公演 NEO~』であります。

これはさらに出演アーティストを絞り込んだうえでカラオケコン形態にしており、試験段階を終えて実用化した第一歩の公演と言えると思います。そこではその絞り込みによって、よりカラオケ現象が局地的になっており、印象としては前述のハロプロライブより意外性が増しているような気さえします。


そこで理由を考えると、やはり「1つのコンサートの形態として提案したかった」という意図が強く感じられます。「1つのビジネスモデルとして定番にしたい」「アーティストが増えてきたので単独コンサートを減らし、組み合わせでやっていく方向で今後の形にしたい」という見方は穿ちすぎでしょうか。



長々と書いてきましたが、実はここまでは前フリ(笑)えー!

ここまでは冷静に冷静に分析したつもりなんです。ここからはさらに僕の個人的な意見が強くなって来ます。この分析した状況に対して思ったことを書いていこうと思います。


僕はカラオケコンには反対です。

やっぱりちょっと違和感があるんですね。やっぱりさ、いくらなんでも本人が自分の曲を歌ってて欲しいんですよ。もしそこは譲っても本人+他の人とかね。とりあえず本人には関わっていて欲しいなと思うんです。


そこらへんの線引きってのは難しくて、人それぞれの思い入れにもよると思うんですけど、例えば『ハロ★プロパーティ~!2005~松浦亜弥キャプテン公演 NEO~』で言えば、加護亜依の『ブギートレイン’03』はダメ、メロン記念日松浦亜弥の『肉体は正直なEROS』はOK、辻希美の『ね~え?』はダメ、全員で『Yeah!めっちゃホリディ』はOK、全員で『LOVEマシーン』はOKとかね。あくまでこれはライブに行っていない僕が情報だけで判断した場合の話ですが。


でもこれだけですでに、「出演していないアーティストの曲を歌う」「出演しているアーティストの曲をそのアーティストと一緒に歌う」「出演しているアーティストの曲をその人抜きで他のアーティストが歌う」「出演しているアーティストの曲を全員で歌う」「出演していないアーティストの曲を全員で歌う」と5種類のパターンがあるわけですよ。

そのパターンの多さに加えて楽曲自体が持つ歴史やファンの個人的な思い入れが入ってくるわけだから、そら線引きもぐちゃぐちゃになるわな。


ただ演者たちが、(自分たちの曲を自分が歌えず他人に歌われるのは置いといて)自分が他人の曲を歌うことに思い入れや抵抗があるかどうかということもあります。僕たちが思っているほどそんなに嫌だと思っていないんじゃないかと考えることも出来ますよね。

「あ、あの曲歌えるんだ」と喜ぶ人もいるかもしれないし、「どうせ1曲歌う枠があるんだったら自分の曲歌いたかったなぁ」と残念がる人もいるかもしれません。


そういう視点から見ると、観客の一部であるファンの僕たちがあまりにも思い入れにこだわりすぎてる面も否定できませんが、ファンてのは一番こだわるからファンですからそうなっても仕方ないという思いもありつつ。


だからそう思って「カラオケコン」はカラオケコンだとして割り切ることにしたとしても、定番で王道となってしまうのは嫌なんですね、結局。今のまっつーのようにソロコンサートがないとか、前回のまっつーのようにソロコンあってもスケジュール的に無理があるとか副作用もありますし。っていうか松浦亜弥ばっかりじゃんかよ!トップが一番苦杯なめてるじゃねえかチクショウが!!


やっぱりソロで観たいんですよ。好きならずっとその人の歌を聴きたい、姿を見ていたいっていうのが正直な気持ち。


じゃあカラオケコンが蔓延して単独コンが観れないという状況になったのは、どこに原因があるのか。単純化すれば選択肢としては「企画・プロデュース側」「アーティスト」「ファン」「現場の環境」の4点しかないわけです。それがコンサートを形成する4つの要素なのでそれ以外の要素が原因っていうのは考えにくい。

もっと具体的に言えば、


カラオケコン形態を考え実行した「企画・プロデュース側」。

どこかパフォーマンスが散漫な「アーティスト」。

ヲタ芸をする、さらには奇行に走る「ファン」。

応援が奇行に走るようなヲタを生み出した緩い「現場の環境」。


この4つの具体例はあくまで私的感じていることを元に並べているので、本当にそうなのかはわかりませんが、想像としては成り立ちます。

ただ、この4つのうちどれが原因だ、誰が悪い、あいつが悪いということではない。こういうのはよく会社に矛先が向きますが、会社だってビジネスでやっているから仕方ないわけですよ。もうね、誰に文句を言えばいいかわからないわけですよ。どうしようもない。


だからこそ僕は申し上げたい。

それぞれが、それぞれで、もう1回きちんと考えて、誠意を尽くさない?


誰か1人変わったってダメなんですよ。


例えば先日書いた『トライアングルエナジー』では、安倍なつみ後藤真希松浦亜弥の3人がそこにいない他のグループの曲を歌いつつも、最高のパフォーマンスをした。でも依然としてそれは他人の曲という。歌の力で限りなく問題を吹き飛ばすことは出来たとはいえ、完全には無くならない。


例えば会社がカラオケコン形態を廃止して単独コンサートをやった。セットリストも申し分ない内容。でもアーティストが過剰に一部の人間に反応したり、それでパフォーマンスが散漫になってはいけない。そこに隙が生まれて良いものにはならない。


例えば単独コンサートでセットリストも良く練られていて、アーティストも最高のパフォーマンスをした。でも常に奇妙なヲタ芸や気味の悪い掛け声、更にはゴミや周辺への騒音などが常に耐えない。他人のことを考えない思考がコンサートのクオリティそのものを下げていく。


結局全部影響しあっているわけで、1つが1つに原因を擦り付けている限りは永久に良くならないと思います。


だから、誰か1人が変わったってダメ。


そろそろさ、何とかしたいと思うんですよ。僕はファンなのでファンとして出来ることをしたい気持ちがある。もう巨大過ぎて、個人ではほとんどどうにも出来ない問題なんだけれど、でも。

やっぱり手っ取り早く変われるのはファンなんですよ。ファンの一部で蔓延している「他人のことを考えない、自分だけが楽しければいい」という思考はコンサートを作る上記の4つの要素の中で一番つまらないことだから。

真っ先に変えたいし、根拠としては即変えられる「どーでもいいワガママ」ですからね。さっさと変えたいですよ、もう。


「お客様は神様です」なんて言われているくらいなんだから、ファンがいちばん、良くも悪くも出来る力を持ってるんです。


「まずは自分のことから」の精神を一番先にファンが持ちませんかね。

冷静に考えてみようよ、好きなんでしょ?ハローが。


これが今、僕が「カラオケコン現象」について思っていることです。

長くて書き逃していることがあるかもしれないけど(笑)とりあえずもやもやした気持ちや考えをまとめてみました。


長々とまとめ切れていない文章を読んでくださってありがとうございました。